米沢市|直江兼続|戦国武将|天地人

上杉の智将 直江兼続(なおえかねつぐ)の生涯を描く
2009年大河ドラマ 「天地人」

直江兼続肖像 直江兼続は、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。関が原敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い執政として米沢城下を整備。現在の城下町米沢の基盤を築きました。
 また、現在国宝に指定されている「宋版史記」や「漢書」などを集めた文人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されています。

直江兼続の一生

 直江兼続の一生を、上杉家および天下の動向と合わせてご紹介いたします。
上杉家の動き


御館の乱 天正6(1578)
 謙信の急死は、上杉家に家督争いを引き起こします。景勝と、もう一人の養子である景虎(北条氏康の子)の争いは、景虎が身を寄せた御館城の名から、「御館の乱」と呼ばれます。すばやく春日山城の本城に陣取った景勝は、北条氏と姉の嫁ぎ先である武田氏を頼る景虎に対して、武田勝頼の妹(菊姫)との婚儀を進め、翌年ついに景虎を滅ぼします。


秀吉の傘下へ
 信長の死後、はやばやと光秀を討ち、実権を握ったのは秀吉でした。越前北庄に柴田勝家を滅ぼした際、背後の景勝と提携しました。  天正14(1586)年、景勝とともに兼続も上洛して秀吉に面会し、臣従の形をとり、翌々年再び上洛した際には、兼続は朝廷から山城守に任じられます。佐渡平定、奥羽仕置など、秀吉が支配を拡大する中で、各地の検地や刀狩りの実行に兼続も深く関わりました。

会津へ転封 慶長3(1598)  豊臣政権下で有力大名に成長した景勝は、関東・東北支配の拠点として、会津120万石に転封されます。会津では兼続の陣頭指揮の下、城や道路の整備を進めますが、後に家康に疑心を抱かせることになります。



関ヶ原の合戦 慶長5(1600)
 会津(景勝)征伐の大号令をかけた家康は、手前の小山に陣取りますが、石田三成挙兵の知らせを聞いて西へとって返します。会津にとどまった景勝は、兼続を総大将に最上軍と戦闘を繰り広げました。長谷堂の陣で家康勝利の報を聞いた景勝軍は、決死の覚悟で会津へ退却しました。

米沢へ減封 慶長6(1601)
 戦後上洛して家康に面会して謝罪した景勝は、米沢30万石に減封されました。会津時代の家臣をほとんど召し放たず、それらも考慮した城下町づくりが兼続を中心に進められたのです。
直江兼続の一生
誕生 永禄3(1560)
 越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生まれました。父は坂戸城主長尾政景(景勝の父)に仕えた樋口兼豊で、幼名は与六といいます。

景勝の側近へ
 兼続の優れた器量を見込んだ景勝の母(謙信の姉、仙桃院)に、景勝の近習として取り立てられ、政景の死後、謙信の養子となって春日山城へ入る景勝に同行したと伝えられます。

直江家相続 天正9(1581)
 御館の乱の論功行賞に対する不満から起きた事件に巻き込まれ、与板城主直江信綱が死亡してしまいます。名家の存続を願う景勝は、未亡人となったお船の方と兼続を結婚させ、直江家を継がせました。








文人兼続
 度重なる上洛は、兼続に文人として活躍する機会を与えました。五山文学を中心に、禅僧との交流を深め、中国の史書や古典などを積極的に集めました。文禄元(1598)年、朝鮮侵略の際も、貴重な書物を持ち帰っています。





直江状 慶長5(1600)
 4月14日付けで、会津の兼続から京都豊光寺の承兌に宛てた書状です。家康の意向を受けた承兌が、謀反の嫌疑をかけられた景勝に、起請文の提出と上洛を促していることに対し、兼続が真っ向から反論する内容になっています。原本は残存していません。





松川の治水事業
 まちづくりの要となる治水事業にも兼続は率先して取りかかりました。松川の氾濫を防ぐために谷地河原堤防を築き、城下へ必要な用水を供給するため新たな堰を開削しています。猿尾堰の鎮守として龍師火帝の石碑が今も残ります。

文人兼続2 元和4(1618)
 兼続は足利学校で修行させた九山和尚を米沢に呼び寄せ、禅林寺(現法泉寺)を開きました。禅林寺の中に兼続が集めた図書を備え、米沢藩士の学問所としました。

死去 元和5(1619)
 12月19日、兼続死去。60歳。菩提寺である徳昌寺に埋葬されました。お船の方は高野山金剛峰寺に宝楼閣瑜祇塔を建立し、その壁に夫兼続と息子景明の肖像を描かせ、供養したと伝えられます。お船の方は寛永14(1637)年に亡くなって同じく徳昌寺に埋葬されましたが、後に林泉寺に改葬されました。今もなお直江夫妻の墓は並んで建っています。
天下の動向
◇永禄3(1560)信長が桶狭間の闘いで今川義元を破る。

◇永禄4(1561)謙信と信玄の一騎打ちが伝えられる川中島の戦い。


◇天正元(1572) 信玄死去






◇この頃、景勝は魚津城など北陸を舞台に柴田勝家ら信長軍と戦う。

◇天正10(1582)信長・家康連合軍が武田勝頼を滅ぼす。同年、信長が本能寺で明智光秀に討たれる。









◇慶長3(1598) 秀吉死去。

◇慶長4(1599) 前田利家死去、家康の力が強まる



























◇慶長8(1603) 
江戸幕府開幕






◇元和元(1615) 大坂夏の陣
◇元和2 (1616) 家康死去。
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